The First Win: Flanders Retrospective
「がむしゃらにペダルを回したら勝てたんだ!」 - イタリアのヒーローとなったアルベルト・ベッティオール。プロキャリア初勝利がクラシック優勝という快挙成し遂げたアルベルト。その裏に隠されたストーリーとは。
ミラノ〜サンレモ、ロンド・ファン・フラーンデレン、パリ〜ルーベ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ、ジロ・ディ・ロンバルディアの五つのレースは、クラシックのなかでもとりわけ古い歴史があり、記念碑的なレースという意味合いを込めて、モニュメントと呼ばれ高い権威を保ち続けています。ロンド・ファン・フラーンデレンと呼ばれるこのレースは、1913年から続く歴史あるロードレース。ロンドは、モニュメントのなかでも2つある石畳レースの1つ。このレースに勝てば人生が変わる、とまで言われる非常に格式の高いレースです。2014年、19歳のときキャノンデール・プロサイクリングでプロデビューしたアルベルト・ベッティオールは、ロンド・ファン・フラーンデレンで初優勝を遂げました。これまでのキャリアと、この1年でどのような変化があったかなどについてインタビューしました。
Q: バイクを始めたときは、どのような夢がありましたか?
アルベルト・ベッティオール:子供のころは、イタリア人だからやっぱり、ジロ・デ・イタリアで優勝したいと思っていたね。でも、自分の走り方は、ジロには向いていないと気づいたんだ。それでも、いつかはステージで優勝して、マリア・ローザ(ジロ・デ・イタリアで総合成績1位の選手だけが着用することが許されるピンクのリーダージャージ)を手に入れたいと思っているんだ。
Q: 自転車に乗り始めたとき、すでにプロ選手になりたいと考えていたのですか?
AB: そうだね、子供のころからの目標であり、プロ選手になることを夢みて過ごしてきたんだ。イタリアではサッカーがとても人気だから、父はサッカー以外のスポーツをさせたかったみたい。それで、自転車、テニス、水泳をしてみたんだ。ときどきサッカーもしたけどね。自転車では楽しい思い出がたくさんあるよ。最終的に自転車を選んだ理由は、子供のころから多くのレースで優勝できたから。6歳~12歳のとき、ヤングカテゴリーで年間10~12レースで優勝したと思う。でも、いちばん大きな理由は、自分だけでなく家族みんなが自転車を楽しんでいたから。家族みんなで一緒にレースに行けることが嬉しかったんだよ。家から遠く離れた北イタリアへ家族で行って、一晩そこで過ごす、みたいなのが本当に楽しい思い出。10代のころは、友達と違って体の成長が遅く、14~15歳でも脇毛もヒゲも生えてこなかった。筋肉もそれほど発達していなかったから、小さいころに比べると優勝する回数も減ってしまったけど、それでも自転車競技は楽しくて続けることができた。17~18歳になるころには、また表彰台にのることもあって、それでプロの道を真剣に考え始めたんだ。プロ選手になれたことも、2019年に世界最高のレースのひとつで優勝できたことも、本当にラッキーだったと思う。子供のころ抱いていた夢がたくさん叶えられたんだからね。
Q: プロ選手になりたい、と初めて思ったのはいつですか?
AB: U23の2年目は、3レース中ふたつのレースで優勝することができたんだ。決して大きいレースではなかったけど、イタリア国内で少しずつ「強い選手」だと評判が聞こえてくるようになった。そして、チームメイトと一緒にレースしていたときに良い結果を残せたので、プロ選手になれるかもしれない、と考え始めたんだ。そして、その年の4月、やっとプロ契約を交わすことができたんだ。夢は、叶えるまではただの夢。このチームと契約しなければ一生プロにならなかったと思う。キャノンデールのロベルト・アマディオと契約したときは、本当にプロ選手になったんだと実感したよ。2013年、まだ23歳だったとき、リクイガスから電話をもらい、サン・ペッレグリーノの合宿に来るように言われたんだ。そこで、本物のプロ選手たちに囲まれ、とても興奮したことを覚えている。この合宿で、プロの世界を直接、目にすることができたんだ。
Q: では、レースの前は、どんなことを期待していましたか?
AB: ただ良いレースができたらいい、と考えていた。メンタルも、コンディションも、チームも、すべていい状態。ただ、結果がどうなるかは全く想像できていなかった。レース前のインタビューで、110%力を出してゴールすることが目標、と答えたことは覚えている。ゴールできることだけでも嬉しかったから、それ以上は言えなかった。フランドルでは、事故や予期せぬ事態がよく起こる。パンク、落車、集団から離れすぎて戻れなくなることもよくある。トラブルが起こらない方が珍しい。だから、ゴールできたら十分。それがレース前の目標で、優勝したいなんて想像すらしてなかった。
Q: 2019年はミラノ~サンレモでの素晴らしいフィニッシュ、E3の表彰台にも近づいたので、次のレースで優勝できると思っていませんでしたか?
AB: いいや、こんな大きなレースで優勝できるとは夢にも思わなかったよ。フランドルは前にも走ったことがあったけど、このレースの難しさや歴史を分かっていたつもりだった。このレースにかけている選手もたくさんいるし、自分が勝てるなんて思わなかったよ。2018年には肺と鎖骨の治療のためリエージュ(ベルギー)の病院に入院していたし、優勝できたなんて本当に信じられないよ。ぺーター・サガン、グレッグ・ヴァンアーヴェルマートのような伝説の選手が周りにいたから、なぜ自分が勝てたのか不思議です。でも、フランドルの前、ミラノ~サンレモやティレーノ~アドリアティコのステージ3位、最後のタイムトライアル、E3ハーレルベーケで2位になれたから少しは自信がついていた。石畳への準備、チームサポートは万全。コースもちゃんと頭に入っていた。先ずはコースをちゃんと把握することがとても大事だからね。チームのアンドレアス・クリール(チームディレクター)とケン・ファンマルク(チームディレクター)と初めてチームを組み、負けない方法ではなく、勝つための方法を一緒に考えたんだ。昔は、負けないようにと考えていて、勝つことを考えてなかったからね。同じように聞こえるかもしれないけど、全然違うからね。他のチームにとってもそうだけど、このレースはとても重要だからね。でも、私たちはクイックステップとは違う。このとき初めて、自分たちに自信を持つことができた。負けない方法ではなく、勝つ方法を考える。最後は本当に最高の1週間だったね。E3ハーレルベーケとヘント~ウェヴェルヘムで失敗したけど、それはライダーのせいだけではなくチーム全体、ギアの選択、集団での動きなど、いろいろな理由が重なり合っていた。フランドルでは、問題をすべてを改善して、レースへの準備が整った最高のチームとなっていたと思う。これこそが最も重要なポイントだった。
Q: フランドルで勝つというチームの願いにプレッシャーを感じていましたか?
AB: プレッシャーは全然なかったね。多分、そんなことを感じていたら優勝なんてできなかったと思う。もし、プレッシャーを感じていたら残り18キロでアタックできなかったと思う。早目にアタックしたら、バテて追いつかれたらどうしよう?とか考えてスプリントする力も出なかったと思う。悩むことなく、自由に走ることができた。プレッシャーなんて1ミリもなかった。無線からは「行け、行け、振り返るな」しか聞こえてこない。何も考えずに何かをしても、だいたい10回中9回は何も起こらないけど、今回はあまり意識しなかったからこそ逆に優勝することができたんだと思う。
Q: クワレモントのレースで「行け! 頑張れ!」と声援を聞き、後ろにはまだどの選手もいなかったときはどう思いましたか?
AB: 山頂近くでファン・アヴェルマートや他の選手のかなり前に自分がいることに気付づいたんだ。一度だけ山頂で後ろを振り返ったあとは、ゴールライン100m手間までずっと前だけを見てペダルを回し続けた。前に進むこと以外は、何も考えていなかったと思う。このチャンスしかない、と思っていた。私は、チャンピオンと言えるような選手ではないことは知っている。ファン・アヴェルマートやペーター・サガンのように、勝てるチャンスがたくさんある訳ではないんだ。たった一つのチャンスしかない。だからクワレモントでは、死ぬ気でペダルを踏んだ。この唯一のチャンスであるクワレモントで、サガンやアレクサンドル・クリストフ、マイケル・マシューズなどの強いスプリンターに注意しながら、ペテルブルグまで小さい集団で走ることを選択。そのときは、スプリンターたちが何をするのか分かってなくて、ただ前に進むことしかなかった。もし、飛び出したときにどの選手が付いて来れるのかさえ分からない。幸いついてくる選手が一人もいなかったから、全力でペダルに力を込めたんだ。ひと踏みひと踏み、前にだけ集中。クワレモントで考えた、フランダースで優勝するための唯一の方法だった。そのときの写真を見てよ。もし、100メートル前でスプリントし始めれば、きっと誰かは追いついたかもしれない。100メートル後にスプリントし始めれば、クワレモントは終わり、20秒の差を作ることはできなかったかもしれない。フランドルで優勝するには、最高のチーム、最高の走り方、スタミナだけではなく、完璧なタイミングを見極める必要がある。6時間半のレースのなかで、たった1秒で正確な判断をしなければ勝てない。完璧な瞬間を選ぶことができたのは、本当に運が良かったから。
Q: ゴールまで残り18キロ、「勝つぞ」、「いけるかも」、「負けてしまうかも」、どんなことを考えていましたか?
AB: バカなことをしてるな、負けるだろうなと考えていたんだ。本当に、ゴール100メートル手前までそう思っていた。クワレモントからペテルブルグまでアタックしたときは、30分で間違いなく追いつかれると思っていた。チームにはスプリンターのセバスティアン・ラングヴェルトがいて、私の仕事は彼をサポートすること。自分が勝ちたい、なんて考えてはいけないと思っていた。でも、状況が急に変わったんだ。
Q: つまり、何かすごいことをして優勝したのですか?
AB: その通り! 無茶苦茶な走り方で勝ったんだよ!
Q: その後、生活に変化はありましたか?
AB: 2020年は、ちょっと思考を変えている。去年、シーズン前半と比べて、後半が良くなかった理由は、フランドルでの優勝を引きずり過ぎていたんだと思う。パフォーマンスは物理的に見れば、フランドルと比べれば、ツール・ド・フランスのときの方が体力的にも精神的にも良かったはず。フランドルは、レース当日もその1ヶ月前も、特にプレッシャーもなくて、毎日リラックスして過ごすことができた。でも、フランドルで優勝した後は、どのレースでも、必ず合格しなければいけない試験のように感じるようなってしまったんだ。失敗はできない、と思い込んでいた。レース自体も嫌になって、前のように走る幸せや自由を感じられなくなってしまったんだ。でも、もう大丈夫。フランドルはもう過去のもの。良いレースにするにはどうすればいいのか学んだ。大きなレースでも勝てるということを証明することができた。
これまで準備はしてきたけど、期待しすぎないでください。なるようになるさ!冬は、バイクトレーニングだけではなく、頭の中で精神的なトレーニングもしてきた。今シーズン最初のレース、エトワール・ド・ベセージュで優勝できた。フランドルやその他の大きなレースの準備はできている。とても大きなチャレンジだったけど、一歩前進してフランドルからいっぱい学んだし、ポジティブ思考になったよ。急いでもいいことはないので、ゆっくり行きたいと思っている。例えば、車で急発信すると首に衝撃が来たりするよね。だから、ゆっくり進みたいと思っている。
Q: プロトンでの立ち位置は変わりましたか?
AB: 前よりは有名になったから、周りからも注目されるよね。でも、そんなに重要なことではない。全力を尽くして、プレッシャーを感じずに、自由にレースしていきたいと思っている。以前と比べれば、注目されることも多くなったし、インタビューとかにも丁寧に対応しなければいけないけど、周りには大切な家族、友達、マネージャー、トレーナーがいて、自分を支えてくれている。ずっと彼らと一緒に成長してきたし、どんなときでも私の最大のサポーター。これが私の大切なベースとなっている。
Q: レース後には何か特別なことをされましたか? そのキーホルダーは何ですか?
AB: この話をしだしたら小説を一本書けるかも!実は、スマホカバーやキーホルダーなどを作っている知り合いがいるんだけど、彼が大画面で私のフィニッシュシーンを見てくれていて、優勝後、直ぐに動画を送ってくれたんだよ。数日後、彼から「アルベルト、私のこと信じてくれているよね?」というメールが届いて、「優勝したときに使っていたタイヤで、何か特別なものを作りたいんだけどいいかな?」と言われ、すぐに「いいよ!」と返事した。フランドルの優勝をサポートしてくれたみんなに、何かお返しがしたかったんだ。ただのプレゼントではなく、本物の何かでね。これにはお金で買えない価値がある。私と一緒に走り切って優勝した本物の一部だからね。彼は数ヶ月後、77個のキーホルダーを作って、表には私のサイン、裏にはフランドルで優勝したタイヤの一部。私は1番、マネージャーは77番を手にしたんだ。残りのキーホルダーはみんなに渡したよ。みんな本当に喜んでくれて、とても嬉しかったよ。このプレゼントを大切な宝物。2019年フランドル優勝の一部を、みんなで共有していることが最高だね。一緒に戦い、この優勝をサポートしてくれた人が、これを持ってくれていることが幸せ。
Q: フランドルで優勝したバイクは今どこにありますか?
AB: バイクと使ったヘルメット、サングラスは、トスカーナにある。ジャージは実家に。大事なものは安全に保管しているよ。いつか、全部ルガーノの家に移動しようと思っている。これを見たら、毎日のトレーニングが苦しくても、優勝したころを思い出して頑張れるから。